WinMXとかWinnyとか、日本ではろくな扱いを受けていないP2Pですが、海外ではけっこう真面目に議論されてるんですよというブログ。
以下の文章は、「Internet Manifesto」の英語版(翻訳者 Jenna L. Brinning)を翻訳したものである。この宣言のオリジナルはドイツ語であり、ドイツ人ブロガーやニュースメディア関係者14名によって共同執筆されたもの。なお、P2P BlogのJanko Roettgersによれば、「我々は実に慎み深いため、これをインターネット宣言と呼ぶことにした」そうである。洒落てるね。
原典:Internet
Manifesto
日付:07.09.2009
著者:文中末尾に記載
ライセンス:CC BY
インターネット宣言: 今日のジャーナリズムはいかにして機能するか―17の提言
1. インターネットは独自のものである
それは異なる公共空間、異なる交易条件、異なる文化的スキルを生み出すものである。メディアは今日の技術的現実を無視、敵対視するのではなく、その作法に適応しなければならない。利用できるテクノロジーを駆使し、ジャーナリズムの最良のかたちを作ることこそ、彼らの責務である。これは新たな報道のプロダクト、メソッドを含むものである。
2. インターネットはポケットサイズのメディア帝国である
ウェブはかつての限界と寡占とを乗り越えることで、既存のメディア構造を再編する。もはや莫大な資本を持たなくとも、メディアコンテンツを公表し、頒布することができる。ジャーナリズムの自己概念は―幸いにも―、そのゲートキーパー的機能を矯正している。ジャーナリズムが単なる出版と袂を分かつことで、報道の質が純化される。
3. インターネットは我々の社会であり、我々の社会はインターネットである
ソーシャルネットワーク、Wikipedia、YouTubeといったウェブベースのプラットフォームは、西欧諸国に住む大多数の人々にとって日常の一部となっている。それらは電話やテレビ同様にアクセシブルである。メディア企業が自らの存在を維持したいならば、今日のユーザの日常世界を理解し、彼らのコミュニケーションの有り様を受け入れなければならない。これはソーシャル・コミュニケーションの基本的な形態を内包している。つまり、聞き、応答するということ。これはダイアログ(対話)としても知られている。
4. インターネットの自由は不可侵である
インターネットのオープンな構造は、デジタルなコミュニケーション社会の根本的なIT原則を構成する。ジャーナリズムも同様である。公共の利益を騙り、特定の商業的、政治的利益を保護せんとする試みによって、それを変えられることはないだろう。インターネット・アクセスの遮断は、いかなる手段を用いて実現するにしても、自由な情報の流れ、情報の自己決定権という我々の基本的権利を侵害する。
5. インターネットは情報の勝利である
これまでは、テクノロジーが不十分であったために、メディア企業、リサーチ・センター、公共機関、その他組織が、世界の情報を編集、分類してきた。しかし今日では、すべての市民が自分自身のためのニュースフィルターを設定することができ、検索エンジンは歴史上類を見ないほどの豊富な情報を活用している。今、個人はこれまで以上に情報を得ることができる。
6. インターネットはジャーナリズムを
変化進歩させるインターネットを通じて、ジャーナリズムは新たな方法でその社会的教育の役割を果たすことができる。ここには、絶えず変化する、継続的なプロセスとしての情報の提示などが含まれ、活字媒体が不変性を失うことで利益をもたらされる。この新たな情報の世界を生き延びるには、新たな理想、新たな報道認識、そして新たな可能性を利用することへの喜びが必要となる。
7. ネットはネットワーク化を必要とする
リンクは繋がりである。我々はリンクを通じて互いを知る。これを利用しないならば、自分自身をソーシャルなやりとりから隔絶することになる。これも伝統的なメディア企業のウェブサイトに当てはまる。
8. リンクは報酬、引用は装飾である
検索エンジンやアグリゲーターは、良質なジャーナリズムを育てる。これらは優れたコンテンツの発見可能性を長期にわたって高める。したがって、ネットワーク化された新たな公共空間に不可欠なものである。リンクや引用による参照―特に、原作者の承諾や対価なしに行なわれるもの―は、ネットワーク化されたソーシャルな対話を生み出す足がかりとなる。これらは絶対に保護する価値のあるものである。
9. インターネットは政治的対話の新たな場である
民主主義は、参加と情報の自由によって繁栄する。政治的な議論を既存のメディアからインターネットに移し、市民を積極的に関与させることによってその議論を拡大することは、ジャーナリズムの担う新たな役割の1つである。
10. 今日の出版の自由は言論の自由と同義である
ドイツ憲法第5条は、職業や、技術的に従来のビジネスモデルを保護する権利を与えるものではない。したがって、出版の自由の特権は、報道の責務に寄与するすべての人に与えられなければならない。定性的にいえば、有償と無償のジャーナリズムとで区別されてはならない、むしろ、質の高い/質の低いジャーナリズムとして区別されねばならない。
11. 多い方が良い:多すぎる情報などない
遙か昔、活版印刷が発明されたころ、教会などの機関は個人の意識に対する支配力を失うまいと、ふるいにかけられていない情報の氾濫を警告した。一方、パンフレットの製作者、百科事典の編纂者、ジャーナリスト達は、より多くの情報が、個人にも社会全体にも、更なる自由をもたらすことを証明した。今日まで、この点が変わることはない。
12. 伝統はビジネスモデルではない
インターネットにおいて報道コンテンツで利益を上げることはできる。今日でも、既にその多くの事例が存在している。しかし、インターネットは未だ激しい競争の渦中にあるため、ビジネスモデルはネットの構造の適しているものでなければならない。現状を維持せんと政策決定によって調整することで、この避けられない適応から逃げ出してはならない。*ネットにおける最良の財政立て直しソリューションのために、ジャーナリズムはオープンな競争を、そして、これらソリューションの多面的な実行資をへの投資を必要とする。
13. 著作権はインターネット上の市民の義務となる
著作権はインターネット上の情報組織のかなめである。コンテンツ頒布のタイプと範囲を決定する原作者の権利は、ネット上でも拘束力のあるものである。同時に、著作権は旧式の供給メカニズムを保護するための、新たなディストリビューション・モデル、新たなライセンス・スキームを閉め出すための手段として、濫用されるべきものでもない。所有には義務を伴う。
14. インターネットは多数の通貨を有している
広告によって資金調達するオンラインの報道サービスは、プル効果と引き替えにコンテンツを提供する。リーダー、ビューワー、リスナーの時間は貴重である。ジャーナリズム産業において、この関係はつねに資金調達の基本的見解の1つであった。ジャーナリストとして許容しうる、資金調達のための別の新たな形態を創出し、試していかなければならない。
15. ネットにあるものはネットにあり続ける
インターネットは、ジャーナリズムを新たな質的レベルに押し上げている。オンライン、テキスト、音声、イメージは、もはや一時的なものである必要はない。これらが検索可能なかたちで残り続けることで、現代史のアーカイブが構築されていく。ジャーナリズムは、情報やその解釈、誤りの発展を考慮に入れなければならない。たとえば、間違いを認めることも、それを指摘することも、万人に見える形でなされなければならない。
16. クオリティは最も重要であり続ける
インターネットは、その多様性により同種の記事の偽りを暴く。長期的に見れば、傑出し、信頼の置ける、他に類を見ないものだけが、安定した支持を獲得することができる。ユーザーのデマンドは増大している。ジャーナリズムはそのデマンドを満たさなければならず、変化を続ける独自の原則に従わなければならない。
17. すべてはみんなのために
ウェブは20世紀のマスメディア以上に優れた社会的交換の基盤を構成する。不確かなものに出会ったとき、「Wikipedia世代」は一人で、または一致団結して、ソースの信頼性を査定したり、ニュースの一次ソースを確認したり、調査したり、チェックしたり、評価したりすることができる。これを鼻であしらい、そうしたスキルを尊重する気のないジャーナリストが、インターネット世代に相手にされることはないだろう。これはまさしくそうである。インターネットは一度、受け手―リーダー、リスナー、ビューワー―として知った人々と直接コミュニケーションをとることを可能にし、その彼らの知識を活用することを可能にする。ただ知識のあるジャーナリストではなく、コミュニケーションし、調査することのできるジャーナリストこそ求められている。
インターネットにて 2009年9月7日
(via P2P Blog)
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